『自由論』J.S.ミル

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20140830開始-20140831読了

19世紀(1859年), イギリスで発行.

多数派とは, 自分たちを多数派として認めさせることに成功したひとびとである.

p18

社会による圧迫は政治的圧迫よりも恐ろしいものとなる. 直接的な刑罰などはないが日常生活の細部に浸透し魂そのものを奴隷化する 世論は時代/国ごとに別のものができる, よそからは奇異なものに見える. さらにできあがった規則には疑いも持たない. 習慣には魔術的な力があるがゆえにこの種の幻想は普遍的に存在

専制からの防御に加えて多数派からの防御も必要

人の行動についての意見は、道理にもとづかないのであれば、個人的な好き嫌いにすぎない。

p22

多数意見であっても仲間内でのみ通用するものならやはり好き嫌い

原理や原則がないまま選択されたものはしばしば間違いを犯す

本書の目的は, きわめてシンプルな原理を明示することにある. 社会が個人に干渉する場合, その手段が法律による刑罰という物理的な力であれ, 世論という心理的な圧迫であれ, 強制と統制のかたちでかかわるときに, そのかかわり方の当否を絶対的に左右するひとつの原則があることを示したい.

その原理とは, 人間が個人としてであれ集団としてであれ, 他の人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは, 自衛のためである場合に限られるということである.

p.29

物理的にであれ精神的にであれ, 相手にとって良いことだからというのは, 干渉を正当化する十分な理由にならない. (中略) そうした干渉を正当化するには, 相手の行動をやめさせなければ, ほかの人に危害が及ぶとの予測が必要である.

p.30

この原則は成熟した大人に対して適用される. 未成熟な子供は本人以外の保護が必要.

自由という原則は, ひとびとが何の制約も受けずに対等に議論して, それによって社会の改善をおこなうことができる段階に達して, ようやく適用される.

p.31

思想と言論の自由

まず前提として, 専制や政府に対する出版の自由はもう議論する時代ではない(19世紀の時点で当たり前になっている).

意見の発表を封じるのは, 別のその本人が傷つくだけじゃなくて社会にも有害. その意見に対して反対の立場を取る人は, 間違いに気づく機械を失うため.

ある意見が, いかなる反論によっても論破されなかったがゆえに正しいと想定される場合と, そもそも論破を許さないために予め正しいと想定されている場合とのあいだには, きわめて大きな隔たりがある.

p.51

;; 名文だ... 議論を行う気がなくて自分が正しいという前提の上にあぐらかいてる人間, たまにいる.

人間が判断力を備えていることの真価は, 判断を間違えたとき改めることができるという一点にあるのだから, その判断が信頼できるのは, 間違いを改める手段を常に自ら保持している場合のみである.

p.53

自分と異なる考えは, 伝聞ではなくそれを本当に信じている人自信の熱心な言葉を聞くべきだ. 教養がある人でも99%は反対意見をほんとうに理解しようとする気持ちがない.

反対意見, 少数意見を封じると, 真理の一部分が失われてしまう. 意見がゼロイチで正しい/間違ってることはほとんどなく, 何かしら正しい部分があるものだ.

;; キリスト教絶対視, を想定反論としているあたりに時代を感じる. 頑張ってキリスト教万歳論者(架空)を説得/論破しようとしている.

ただし, 表現の自由が無限に認められるわけではない. 表現は穏健なもので, 公正な議論の限界を超えてはならない. 口汚い非難, 嘲笑は不正な武器とみなされる. これはマジョリティ->マイノリティでもその逆でも守るべき節度であるが, とくに多->少の方向はやめさせるべき.

相手が不快になるかどうか, という基準はイマイチ. 攻撃が巧みで強烈であれば, 相手はかならず不快になるじゃん.

一般に, 世間で当たり前とされていることに反対する意見を言うときは, つとめて穏やかな言葉づかいをし, 無用の刺激を与えないよう最新の注意を払わなければ, 話を聞いてももらえまい.

幸福の要素としての個性

個人の自由には限度がある. つまり, 他人に迷惑をかけてはいけない.

;; すごい現代的な感覚だな.

人は何をするかだけが重要なのではない. それをする人はどういう人なのか, というのもじっさいに重要なのである. 人が一生をかけて完成させ, 磨き上げるべき作品のなかで, 一番重要な作品はまさしくその人の, 人間そのものである.

p.144

人間が間違った行いをするのは欲望が強いからではなく, 良心が弱いから.

今日, 個性が爆発して社会がどうしようもない, というよりは社会が個性を押さえつける方に偏ってる. あえて変わった人になることが望ましい. 現在は進んで変わった人になろうとする人がいないのが問題. どんどんやれ.

;; よく見る変人尊重論は「才能を潰すな」「あるがままに伸ばせ」的なものだけど, 凡人も社会のために自覚的にあえて変人を目指すべきだ, という論はなかなか心強いものがあるな.

新しい常識になるかもしれない, 発展するかもしれないという期待からもあるけど, そもそも共通した様式にみんなを押し込めることが不合理なのだ.

他人の幸福を損ねないから, と単に抑制させられてると, 発展が何もない. せいぜい反抗して性格が強くなるだけだし, 反抗すらしないでいると人間性の全体が鈍化してダメになる.

個性とは人間として成長することである.

p.155

凡庸な人々による政治が凡庸になるのは仕方ない. 例外的なのは, 政治のトップが優れた才能を持つ一人or少数に感服し, その助言に従っていた時代. かといって英雄崇拝論を展開するつもりもない.

古代中国は多様性あったが, 民族画一化に成功したからこそのいまこのありさまだよ(執筆時は列強に切り分けられてた時代かな)

ドイツの政治家フンボルト曰く, 人間を発展させるために必要なのは

  1. 自由であること
  2. 境遇が多様であること

個人に対する社会の権威の限界

第一原則: 他人の利益を侵害しないこと.

これを守らないものには罰を加えても良い. 法律or世論.

自分たちに適用されたらとんでもない, と思うような原則は, 他の集団に対して適用されているのも見過ごすべきではない.

社会は教育の責任を負う. 子供に何を教えるべきか. しかし教育は画一的な考えを押し付ける土台にもなる.

国家の価値はひとりひとりの人間の価値にほかならない. したがって, ひとりひとりの人間が知的に成長することを後回しにすべきではない.