『意志と表象としての世界(1)』ショーペンハウアー

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20150206開始, 20150207読了

意志と表象としての世界 = The World as Will and Representation

第一巻 表象としての世界の第一考察

「世界はわたしの表象Vorstellungである」

生きて認識するものすべての真理,だがこの真理を意識できるのは人間のみ

認識のいっさいは眺めるものあってのもの, つまり表象にすぎない

「世界はわたしの意志である」Die Weit ist mein Wille

これが2番目の真理

主観とは, すべてを認識するがなにびとからも認識されないもの

表象としての世界には2面がある.

  1. 客観. その形式は空間と時間.
  2. 主観. 空間にも時間にも属さない. 全く分割できず全体として成り立つ.

われわれのすべての表象には, 直感的と抽象的との二つの大きな区別がある.抽象的な表象は,種類が"ひとつ"あるだけで,これがすなわち概念である.この地上で概念を持っているのはただ人間だけであって,概念を持ちうる能力が昔から"理性"と名づけられて,人間をあらゆる動物から区別してきたのである.(p.14)

時間において現在は広がりも持続も持たない境界線にすぎない.

根拠の原理が形をなすのは,純粋時間そのもののうちにおいてであり,根拠の原理のこの形態化がすべての勘定と計算の基礎となっている.

直感は単に感覚的ではなく知的である.直感とは結果から原因を悟性的に純粋に認識すること.したがって因果律を前提としている. 悟性はあらゆる動物,あらゆる人間で同じ形式,つまり因果律の認識,原因から結果へという形式に他ならない. 悟性の司る因果律は理性より低次元.まだ理性のほうが上.

  • 理性によって正しく認識されたものが真理Wahrheit
  • 悟性によって正しく認識されたものが実在Realitat

  • 理性を惑わすものとして真理に対立しているのが誤謬Irrtum

  • 悟性を惑わすものとして実在に対立しているのが仮象Schein

仮象は要するに,一つの結果が全く異なった原因によって引き起こされ,片方は頻度高いけどもう片方はたまにしか起こらないようなケース.悟性は,結果が同じなので,どちらが原因かを区別することが出来ない.データによらず,ありふれた方を原因として判断する.

いかなる科学も,

  1. なんらかの形態をとった根拠の原理であり,これは機関Organonである.
  2. それぞれの科学の特殊な対象,問題Problem

のふたつから成る.たとえば幾何学は問題として空間をもち,空間における存在の根拠を機関としてもっている ;;?

ここまで考察した表象の世界は,

  • 客観に注目すれば時間と空間と物質,
  • 主観に注目すれば純粋な感性と悟性(つまり因果性の認識)

に還元されてしまう世界.

そこに人間だけが別の認識力を加える.それは反省Refrexionである.直感的な認識の"反射"であることからじつに適切な呼び名であると言えよう.

いったいどのようにして"確実性"は達成されるのか.判断はどのようにして基礎づけられるのか.

総じて"知る"とは,十分な認識根拠を判断の外のなにものかのうちに有している判断,すなわち真であるところの判断を,おのれの精神の力のうちにおさめ,自由自在にこれを再現しうるという意味である.(p.115)

「知る」とはいえない植物にも生命はあると考える.植物に生命はあるが意識はないとされる.

「知る」とは抽象的な意識のことであり,概念とは別の仕方で理性が認識したものを,概念の中に固定すること.

そうした視点からいうと「知」と対立するのは「情」である.

そもそも苦しむことなく生きようとするそのこと自体に一つの完全な矛盾があるのだ(p.202)

第二巻 意志としての世界の第一考察

認識主体は第一に表象として,つまり客観の中の一客観として与えられる.

同時に第二に,意志として与えられる.

意志のほんとうの働きは"身体の運動"のことである.

意志の働きと身体の活動は二つの異なる状態ではない.それらは原因と結果ではなく,一つにして同じものであり,二つの異なる仕方で与えられているだけなのである.

;; ユーザーイリュージョンとか幻肢とかの研究が存在しない時代にこんなこと言えるのすごい

  • 意志は身体のア・プリオリな認識
  • 身体は意志のア・ポステリオリな認識

わたしがわたしの意志をそもそも客観として認識しているのであれば,わたしはわたしの意志をその限りにおいて身体として認識していることになる.(p.225)

いかなる種類のものであろうと,すべての表象,すなわちすべての"客観"は,"現象"である.しかしひとり"意志"のみが,"物自体"である. (中略) すべての表象,すべての客観は,意志の現象であり,意志が目に見えるようになったものであり,いいかえればこの意志の客体性である.(p.243)

これら"意志の客観化の諸段階"は,"プラトンの言うイデア"にほかならない.

意志の客観化のもっとも低い段階として現れてくるのは自然のいろいろな力.重力,剛性,流動性,弾力,電気,磁力.

意志がその客観化の最高の程度に達した場合(つまり人間),動物において生じた悟性認識だけではもはや足りない.悟性は感覚からデータの提供を受けるが,ただ現在に縛られた"直観"しか生まれてこない. 人間はこの直観的な認識に加えて"反省能力",つまり抽象的概念としての理性を持たねばならなかった.

理性とともに,未来と過去の展望を含めて"思慮"というものが誕生した.その結果自分自身の意志決定そのものについてのまったく明瞭な意識も生まれた.

いっさいの目標がないということ,いっさいの限界がないということは,意志そのものの本質に属している.意志は終わるところを知らぬ努力である.(p.366)