『死に至る病』キェルケゴール
- 作者: キェルケゴール,斎藤信治
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1957/01
- メディア: 文庫
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20150309開始,同日読了
死に至る病とは絶望のことである
人間とは精神である.精神とは何であるか?精神とは自己である.自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である,すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている,−−それで自己とは単なる関係ではなしに,関係が自己自身に関係するというそのことである.
p.20
- 絶望とは自己自身に関係する関係としての自己(統合)における分裂関係
絶望が死に至る病であるとはどういうことか.肉体的に死ぬのではない.
死が最大の危険である時,人は生を希う.彼が更に恐るべき危険を学び知るに至る時,彼は死を希う.死が希望の対象となるほどに危険が増大した場合,絶望とは死にうるという希望さえも失われているそのことである.
p.28
- 絶望の第一形態: 「絶望して自己自身であろうと欲しない場合」
- 絶望の第二形態: 「絶望して自己自身であろうと欲する場合」
完全に健康なものが居ないのと同様,何ほどか絶望していないような人間は居ない.
永遠は君の自己を通じて君を絶望のなかに釘付けにするのである!
p.45
自己は無限性と有限性の意識的な統合である.
人間は絶望した場合でも外見上はまったく普通の人間として何の差し障りもなく日々を送ることができる.仕事をし,結婚し,子を産み,名誉ある地位に立つ−−そして彼にはより深い意味において自己が欠けているということにはおそらく誰も気付かない.
自己というようなものについて世間の人々が大騒ぎすることは決してないのである.なぜなら自己というのは世間では一番問題にされることの少ないものであり,自己とはそれをもっているということがちょっとでも気づかれるならばこれほど危険なことはまたとないような種類のものなのである.自己自身を喪うという本当に一番危険なことが世間ではまるで何でもないかのようにきわめて静かにおこなわれうるのである.
p.51
有限性の絶望は無限性の欠乏に存する.
世間と呼ばれているものは,もしこういってよければ,いわば世間に身売りしているような人々からだけ出来上がっているのである.彼らは自分の才能を利用し,富を蓄積し,世間的な仕事を営み,懸命に打算し,その他いろいろなことを成し遂げて,おそらくは歴史に名が残りさえもする,−−しかし彼等は彼等自身ではない.彼等がその他の点でいかに利己的であろうとも,精神的な意味では何等の自己−−そのためには彼等が一切を賭しうるような自己,神の前における自己,−−をも彼等は所有していない.
p.56
信仰者は絶望に対する「可能性」という解毒剤を持っている.神にとってはあらゆる瞬間において一切が可能なのであるから.
かくて彼は絶望する.彼の絶望は弱さからの絶望(自己の受動的な悩み)であって,自己主張の絶望とは反対のものである.けれども彼は自分の持っている相対的な自己内反省の助けを借りて自分の自己を守ろうと努力する(この点でまた純粋に直接的な人間と異なる).
p.89
絶望は罪である.
罪とは,人間が神の前に(ないし神の概念を抱きつつ)絶望的に自己自身であろうと欲しないことないし絶望的に自己自身であろうと欲することの謂いである.
p.124
罪の反対は決して"徳"ではない.罪の反対は"信仰"である.
キリスト教を弁護することは愚かである.キリスト教的なるものの人間理解がいかに貧弱であるか.
「罪は無知である」これがソクラテス的罪の定義.だがこの無知の定義に分け入って行かねばならない.
罪のうちにとどまっていることがその瞬間瞬間において新たな罪である.
罪とは絶望である.それの度の強まったものが自己の罪に絶望するという新しい罪である.
p.177
キリスト教は,神の説法が人間の躓きによって保護されている
キリスト教は躓きの助けを借りてその身を護ったのである.締りのない演説家達,軽薄な思想家達に呪いあれ!彼等に学び彼等を嘆賞するその徒党全体の上に呪い,しかり,呪いあれ!
p.192