『我と汝・対話』マルティン・ブーバー
- 作者: マルティン・ブーバー,植田重雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/01/16
- メディア: 文庫
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20150502開始,同日読了.狩りて読んだが名言多いので手元にほしい.
我-汝 と 我-それ ふたつの根元語がある. 我-汝は関係を生み,我-それは経験を生む.経験とは汝からの遠ざかり(Du-Ferne)である.
制作とは創造であり,作り出すということは見出すことである.造形とは顕わにすることである.私は具現することによって,開顕する.(p.16)
汝は経験されない.では汝の何が知られるのだろうか? そのすべてのみが知られる.なぜなら汝についてその個々のものはもはや何一つ知られないのだから.
私が汝と出会うのは,汝が私に向かいよってくるからである.だが,汝との直接的な関係のなかへ歩みいるのはこの私の行為である.関係とは選ばれることであると同時に選ぶことであり,受動であると同時に能動である. (p.17)
愛は我と汝の「あいだ」に存在するのである.
愛とは,ひとつの汝にたいするひとつの我の責任である.(p.23)
関係の中に歩みいること(In-Beziehung-treten)の相対性
世界におけるあらゆる汝は「それ」にならざるを得ない.逆に,この世界のすべてのものは「もの」となる以前,あるいは「もの」となった後にひとつの我に対してその「汝」として現れうる.
人間は汝との関わりにおいて我となる.向かい合う存在が交代していくなかで次第に「我の意識」が立ち現れてくる.
純然たる現在のうちにのみ生きることはできない.もしも,あらわな現在というものにすばやく,しかも徹底的に打ち克てるように前もって準備がなされていたなら,それによってひとは焼きつくされてしまうだろう.だが純然たる過去のうちになら生きることができる.そうだ,過去のうちでのみ人生というものは整理され得るのである. (p.48)
あらゆる瞬間を経験と利用で満たせば,いかなる瞬間も燃え上がることはない.
きみよ,それなくしては人間は生きることができない.だが,それとともにのみ生きる者は,人間ではない.(p.48)
経験と利用の機能の向上には,たいていの場合人間の関係能力の低下と引き換えに起こる.
精神の本質とは「汝を言う」能力である.
「それ」の世界において因果律は無制限にこれを支配する.が,人間はそれのみにとらわれない.
- 根元語「我-それ」における我は個我(Eigenwesen)として発現,自己を(経験と利用との)主体として意識.
- 根元語「我-汝」における我は人格(Person)として発現,自己を(従属的な属格を持たぬ)主体として意識.
ブッダは人間に向かって汝を言うことを知っているが,弟子たちに汝を言うことを教えてはいない.
人間は受け取る.そして彼はひとつの<内容>をではなくて,ひとつの現在を,力としてのひとつの現在を受け取るのだ.(p.147)