『話し手の意味の心理性と公共性』三木那由他
2021-10-19 開始
2021-10-20 読了
面白かった。
書き込みつつ読んだのでその後何度か再読して読書メモを抽出
本書は三部構成
1. 意図基盤意味論の概要
2. 意図基盤意味論は問題をはらんでいる
3. 共同性基盤意味論という新たな立場を提唱する
「話し手の意味」に関する研究はグライスという人がはじめたもの
これまではその話し手の意味研究は「意図」をベースにしていた。
意図基盤意味論。つまり、話し手が何を意図しているか、という視点。
だが実際は、意味と意図はそれほど密接に関わっていない。
意図基盤意味論はは「透明性」が必要だったりして、意図の無限後退問題というものを引き起こす。
意図の無限後退は、話し手の意味の「公共性」に関わってくる
意図の無限後退問題とは、話し手の意図という概念によって話しての意味を分析する意図基盤意味論の立場において、その立場を維持しつついかにして話し手の意味の透明性を、ひいては話し手の意味の公共性を確保するかという問題なのだ (p.19)
著者は「公共性」をベースにした論を展開...公共性であってる?
- 話し手の心理性: 話し手が p と言ったら、話し手が p と信じているらしい、ということを話し手と聞き手が合意して、それをベースにコミュニケーションを発生させる。つまり聞き手は話し手に p という信念を帰属することができる。その p を過去の行動の説明や未来の行動の予測に利用できる。話し手が語る p に、聞き手は「同意」しなくていい。あくまで、ああ、話し手は p と思っているんだな、と了解することのみ。
- 話し手の公共性: 話したことをおおやけに引き受けること。雨が振りそうだと言ったら、雨が振りそうだと考えていることを自ら引き受ける。
でもそのコミュニケーションが何を意味しているかでどんどん後退していかない?
...と思ったら、核となる「協力を示す共通認識」が存在するという前提を立てているっってことぽい?話し手の意味の「公共性」によって無限後退をブロックしている?
ここまで序章
意図基盤意味論の概要と限界
話し手の意味の分析は「帰結問題」「接続問題」を解決しなければならない
- 帰結問題。
- 実現状況が特定されれば、話し手が何のために発話しているかがわかる。実現状況を特定する課題を「帰結問題」と呼ぶ
- 接続問題。
- 話し手の発話と実現状況がどう結びついているのか特定すること。
意図基盤意味論は「意図という概念によって、接続問題に答えを与える立場の総称」である
;; あー 帰結/接続 の話にはそもそも意図がないのか? いや帰結に絡んでるな. わからん. 外部からの意図 injection というか独立して扱ってることが特性?
グライスは、最終的に (晩年) 意図の無限後退問題に対して譲歩、ある種の敗北宣言をしている。
姑息な意図 = 言ってることと本心が違うようなシチュエーション。か?
姑息な意図の禁止、という観点からグライスは意図の無限後退問題を解決しようとしたが、うまくいかず。
S が x を発話することで何かを意味しようというのならば、彼が何かを意味するということのために必要となる意図のすべてが公然のものに (out in the open) なっていなければならない (p.77, シファーのコメント)
著者は、意図の無限後退問題は、意図基盤意味論というアプローチ自体の誤りを示しているのではないかと言う。
意図の無限後退問題は「帰結問題」に関わってるのか、それとも「接続問題」に関わってるのか?
意図基盤意味論の論者は、
1. 話し手の意味の透明性
2. 話し手の意味の表象主義
を前提としている。だが、、、
話し手の意味の透明性と表象主義をともに採用すると、分析には循環のゆえに内容が決定不可能となる命題的態度というものが含まれることになり、それが意図の無限後退問題の原因となる (p.144)
と書かれている。つまり採用した前提の時点で、すでに意図の無限後退問題の種が埋め込まれていた。
著者の主張: 共同性基盤意味論
私たちが話し手の意味と話し手の意図の関係として認めるべきなのは、「何かを意味するというのは、何らかの意図を伴ってなされる意図的な行為である」という最小限のことに留まる (p.178)
なるほど。これまで意図基盤意味論が積み重ねられてきた、その土台を一旦解体。
あくまで前提にできるのは、プレーンというかごくごく最低限のつながりに過ぎない、というところまで分解する。
これを読んで字の如く「話し手の意味に関する最小意図説」と呼称(この先もこの呼び名が頻出するかどうかはわからん)
すると問題になるのは、その上に代わりにどんな土台を乗せるのか、というところ。
もっと分野用語を使って言えば
- 「帰結問題にいかに答えるか」
- 「話し手が何かを意味し、聞き手がそれを理解するときに何が起きるか」
を捉え直すのが新規性のある主張
導入されるのは「公共性」という視点
テイラー(テイラー展開も労働生産性もコンテナも関係ない)は以下のように語る
人間のコミュニケーションは単に情報を伝達するだけではないのだ。(中略)何らかの事柄が我らのことであるということの承認を、それはもたらす。 (p.190)
さらにもっとふわっとしたことも言ってるな。「我らのこと」であるという理解は、単なる理解以上のもの。公的な空間。私たちを人まとまりとするもの。ふむ
共同性基盤意味論。
「話し手と聞き手が p という集合的信念を持つ」のではない。
;; まぁ他人から意見聞かされたら強制的にその意見が自分の信念になる世界とか怖すぎるしな
そうではなく、
「話し手が p と信じている、という、集合的信念を話し手と聞き手が持つ」
という形で実現状況が特徴づけられる。共同的にコミットする。これが本書で提唱する帰結問題の解答。
「共同的コミットメントに参加する」ではなくて
「共同的コミットメントに参加する準備を表明する」みたいな wrap された表現をしてるのがよくわからない(参加と参加準備表明の差異が理解できてない)。
聞き手の理解は単なる「内的な情報処理」ではない。
聞き手もアイコンタクトとか頷き、返答などで、何らかの反応を表明する。
;; Paxos? と思ったけど違うな, そんな明確な結論を出すタイプの合意じゃないか (& 解決しようとしている課題が違う気がする). 単に複数視点の ack という意味で blockchain の consensus algorithm っぽさ? そこまで厳密に足並みをそろえてもないか。理解が歪むだけだしあまり変な連想するのはやめとこう
でもこの共同的なコミット、それを可能とする前提が先に存在してないとダメじゃない? A が話したことを聞いて B が頷いたとしても、実は B の文化では「頷くこと = お前が言ってることは何もわからないし許さない、今すぐ殺す」という意味を持ってるかも知れない。これはこれで共同コミットが無限後退しない?
と思ったけど、すぐその話が出てきた:
私たちは再びある種の循環に直面することになるように見える。共同的コミットメントを形成するためにそれに参加する準備を表明するには、そのための行為がそうした表明となるということに関してすでに共同的コミットメントが形成されていなければならないのだ (p.215)
この問題提起に対して、次のような解答がなされている。
...それは循環ではなく、共同的コミットメントの形成のためにはそれより基礎的な別の共同的コミットメントがすでになければならないという後退を示しているにすぎない。そして問題は、それが無限後退か否かである (p.215)
なるほどね、たしかに後退してるけど、それが無限に後退するかそれとも有限個の後退で止まるかどうか、という問題点に帰着させてんのか
で、実際無限なの?
=> 著者の答えは「人間にはいくつかの基礎的/本能的な "協力シグナル" が存在するのではないか」という仮説
協力シグナル候補として視線のやり取りをあげてる。
;; その仮説、どうやって証明すればいいんかな。レヴィ・ストロースの野生の思考的なところまで降りるのか、とすればフィールドワークで探すのか、とか。ミラーニューロン的な生物としての器質的なところに紐付けられるとおもろそうだけど
;; チョムスキーの生得説 vs タブラ・ラサ論みたいな言語文法バトルに吸い込まれそう(協力シグナルは狭義の「言葉」とは別だと思うけど
意図基盤意味論では、話し手と聞き手の背後にある共同体を全スルーして個対個の話になっちゃってた。
だが実際は何かを共有しない限りコミュニケーションは成り立たない
何も共有していない存在(異星人とか)とはコミュニケーションができないことになる... が、新たに何らかの基礎的な共同的コミットメントを形成しさえすれば、それに基づいてコミュニケーションが可能になるぜという希望のある話でもある