『ビューティフル・マインド: 天才数学者の絶望と奇跡』

2022-06-22 開始
2022-07-03 読了

ナッシュ均衡で有名な数学者、ナッシュの話
映画にもなってるっぽい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

ナッシュは20歳ごろから10年のあいだ天才として知られるが、30歳の頃に統合失調症を発症、妄想に取り憑かれる。
アインシュタインやらと近い位置にいたが誰の教えも受けなかった。直感派の天才。
ゲーム理論ノイマンが始めたものだがそれを洗練させたのがナッシュ
ナッシュの人生は、天才、狂気、そして再生

ナッシュは1928年生まれ
両親の結婚から追いかけてる、先は長い
数学に関心を持つ家庭的要因はない。母は文学、父は科学に関心があったが純粋数学はそうでもなかった
まわりに合わせず友達を作らず、しかし頭がよく、だが空気を読まず喋りたいことを独演会する子供だった
ナッシュは学校で教えられたものとは別のやり方を自分で作ることを好み、学校教育としばしば噛み合わなかった
紙とペンを使わない、すべてを脳内で完了する
SAT が普及する前は、大学の新入生係があちこちの高校に行って大学の入学試験を受けるように勧誘して回っていた。
高校最終学年でようやく二人ほど友人ができる

終戦あたりでカーネギー工科大学に入学
技術専門大学から総合大学に変化したタイミング
大学の化学の授業を、"いかによく考えるかではなく、いかに巧みにピペットを使い、いかにみごとに溶液を垂らすかに過ぎない" と語る
体が大きく腕力もあったため肉体的にいじめられはしなかったが変わり者と思われた

バトナム数学競技会。超難問が30分で12問、120点満点。得点の中央値は0点、つまり半数以上は1問も解けない。これで好成績を収めると数学者としての未来は確約されたようなもの
だがナッシュは上位5位に入れず、この失望を割と後々まで引きずった
ああちがった、バトナムじゃなくてパトナム (Putnam) だ

学部カーネギーで過ごし、ハーバードとプリンストンから院の誘いを受ける。ハーバードのブランドに惹かれていたがプリンストンからより熱心に(奨学金額、待遇、数学科の長からの直々の手紙)誘われたためそちらへ。

アインシュタイン
1905年、特殊相対性理論「質量とはエネルギーの凝縮であり、エネルギーとは解放された物質である」
1915年、一般相対性理論「重力は物質自体に備わる特性であり、物質の粒子に作用するとともに光にも作用する。言い換えれば、光は『直進』しない」

ヒルベルト・プログラム: 「数学のあらゆる分野にわたって公理化を行い、すべての問題を機械的に手順通りに解決する」ことを目指した野心的な取り組み
形式主義時代の到来
やがてヒルベルトたちは量子力学や生物物理学、論理学、ゲーム理論などに公理的アプローチを拡大した
だが、プリンストン大学はこの流れから取り残されていた
取り残されてたのは1910年代の話

そこからいろいろな人事の歴史がありなんだかんだで数学の総本山に
1933年あたり、富豪の寄付もあって国際的に一級の才能を引き抜こうと招待してアインシュタインが来る。それに先んじてフォン・ノイマンも来てた
ゲーデルヘルマン・ワイルも渡米

プリンストンの学生に対する姿勢は
・完全な放任主義
・独創性を求めるプレッシャー
のふたつ
成績は「俗物を安心させるためのもの」として適当につけられた

その時代ハーバードは役所的になり研究にいい場所ではなかった。ナッシュがプリンストンを選んだのは正解
ナッシュはほとんど本を読まなかった
クリップボードを持ち歩き、なにか思いついたらそれに記入していた

ナッシュの研究成果のいくつかは、聞きかじりや誰かに質問して得られた回答をもとに、自分流に再構成して生まれた
ナッシュはいつも思索にふけっていた
自身の知的独立を守ることに熱心で、教授の多くとは話さないようにしていた
だが自分の考えを代弁してくれるスティーンロッドにだけは接近していた
ナッシュの同期、ジョン・ミルナーは、講義で取り上げられたカロル・ボルスクの予想を宿題と勘違いして数日後教授に提出しに行ったりした
そういう輩の集まる環境

ナッシュは親近感を持たれるタイプの人間ではなかった
プリンストン大学では毎日 15時から茶会があり、学生と教授たちはほぼそこに参加していた
談話室では囲碁ボードゲームが人気で、ナッシュは自ら考案したゲームを持ち込む。大人気になった
実は同じゲームがピート・ハインによって考案されていた
https://bodoge.hoobby.net/games/hex
これ?
> ヘックスは先手必勝であることが考案者の一人ジョン・ナッシュによって証明されているものの、具体的な手順が示されているわけではないそうです
ナッシュも考案者扱いだ。てか先手必勝なの?
=> 本書中でナッシュもそう言ってる。ただ、先手が負けるのはミスをした場合だけだが、誰も完全な戦略が何かは読み取れないとのこと
上記サイトのレビューを見ると盤が狭いほど先手が有利かもという意見あり

フォン・ノイマンは現世的でエネルギッシュな人物。当時アインシュタインほど高みの人物ではなく、学生たちの良い手本
純水数学、物理学、統計学ゲーム理論、コンピュータの構想など広範囲に活躍
初期のコンピュータに計算問題「下から4桁目が7になる整数を得る、2の累乗の最小値は何か?」を出したときコンピュータよりも先にノイマンが答えを出した逸話がある

『ゲームの理論と経済行動』は大半ノイマンが書いた。
モルゲンシュテルンとの共著ということになってるが、モルゲンシュテルンは数学の素養がなかったので理論周りはぜんぶノイマン
前書き書いて世間を惹きつけたり、そもそもノイマンに声をかけたりしたのはモルゲンシュテルン
ノイマンとモルゲンシュテルンの主張は、従来の経済学は非科学的だ、ということ。
同書は、数学(とくに組み合わせ論集合論)を使って社会理論を再構築する試みであった
出版 1944年。ノイマンの名声は頂点に。

だがナッシュは『ゲームの理論と経済行動』はイマイチだと評価した。ミニマックス定理だけは見るところがあるがあとはそうでもないと。
二人ゼロサムゲームに紙幅の1/3を割いたがそれは現実の社会では妥当ではなく、
最後の方は非ゼロサムゲームを取り扱ってはいるが、過剰消費して赤字を生み出すという非現実的なプレイヤーを導入したために、事実上ゼロサムゲームになっている。
その欠陥を見てとって、ナッシュはゲーム理論の課題に取り組み始める。

交渉問題。
経済学の基礎である交換の概念。人類の歴史と同じくらい古い。

ナッシュは、交渉するふたりの人間が合理的であるなら、それぞれが相手にどのように働きかけるかを予測するという、まったく斬新なアプローチを試みた (p.216)

これは1920年代に数学界で流行した公理系アプローチというもの

ナッシュは、こんにち「ナッシュ均衡」と呼ばれるアイディアに至る。ミニマックス定理をより一般化したもの?
フォン・ノイマンに面会してそれを伝えるが、切り捨てられる。自身の主張に対立する理論。
ゲイル(ボードゲーム hex を一緒に作った友人)に話したら、理解してくれる。さらに世間に疎いナッシュに代わって、優先権を取得するために会報に掲載する段取りも付けてくれた。

ナッシュの(均衡)定理は、ともするとフォン・ノイマンの定理(ミニマックス定理)を普遍化しただけのもの、と考えられがちだ――ナッシュ自身がそのように述べているせいでもある――が、それは単なる拡大ではなく、まったく異質な発展であった。フォン・ノイマンの定理、いわゆる二人ゼロ和ゲーム理論は、完全に対立するふたりのプレイヤーによるゲームの考察を基礎に置いているが、この二人ゼロ和ゲーム理論は、実質的には現実社会に対してなんらの妥当性も持たない。戦争のただなかでさえ、必ずといっていいほど、協力によって得られる何かがある。ナッシュは、協力と非協力の相違を明確にした。協力ゲームは、プレイヤー同士が強制力を持つ合意のうえで行うゲームである。(中略)これとは逆に、非協力ゲームでは強制的な合意は成立しないため、共同的提携は不可能となる。協力と対立が混在するようなゲームへまで理論を拡大することで、ナッシュはゲーム理論を経済学、政治学社会学、さらに生物学にまで適合させる扉を開くことに成功したのである。(p.233)

フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの著書の大半は「協力理論」を扱っているが、これは必ずしもすべてのゲームで成立するとは限らない。
一方ナッシュは、論文の6ページ目で、さまざまなプレイヤーによる非協力ゲームは、すべて最低一つの均衡点を持つことを証明した

22歳のころ、ランド研究所コンサルタントとして初仕事に赴く。そこから4年間付かず離れずの付き合いをする。
朝鮮戦争が勃発し、ナッシュは徴兵を極端に恐れた。指導教官のタッカーらの助けもあり、既に国防に重要な役割を果たしているという申請を出して徴兵を免れた。その一環がランド研究所でのお仕事かな。26歳を越えて徴兵対象年齢から外れても徴兵の恐れは尾を引いていた。

23歳、MIT の講師として就職
ナッシュから見て MIT で最も魅力があったのはノーバート・ウィーナー。サイバネティックスの父。
それ以上の親しみを抱いたのはノーマン・レヴィンソン
講師として講義をしたが、早々に研究に集中する人として認められたため実際に講義したのはごくわずか。しかも多くは基礎的科目
古典的未解決問題をテストに出したりした。
一般学生からは忌避されていたが数学の才能のある学生とは対等に話して尊敬を集めていた

力を示すことに熱心で、まだ解かれていない重要な問題を探して多様体の問題に出くわした。

多様体に関するナッシュの定理は「滑らかさについて、ある条件を満たす曲面は、実際にユークリッド空間に埋め込むことが可能である」というもの。二年間執拗に取り組んで突破した
やがてナッシュはそれまで興味のなかった他人との関わりに踏み出す
あまり教養のない愛人と出会い子をもうける
が、父親になること、結婚することは拒否し、でもまだズルズル関係を続ける
男性とも関係を持つ。同性愛が犯罪とみなさていた時代。警察の同性愛おとり捜査に引っかかってランド研究所を離れる
若い女学生、アリシア?がナッシュに心酔する。この人がのちまでナッシュを支える妻になるんか?
物理の研究を夢見て MIT に入った数少ない女学生だったが、いい成績が取れず落ちぶれつつあった
1958年末から翌2月末までのあいだ、ナッシュは変貌した。明るくふざけ好きな行動に始まり、講義中に夢想したりぶつぶつ独り言を行ったり、自分は重大な任務がある、世界政府を樹立しなければなどと語るようになった
新聞の隅を指差して、ここには暗号でメッセージがあり、地球外の力が送ってきたものだと語る
数学会の講義、250人の聴衆の前で非論理的な数学のワードを散りばめただけのとりとめもないおしゃべりをして、皆がおかしいと気付く

当時はフロイト主義が幅を利かせており、精神疾患は抑圧された同性愛が原因だ、的な言説が信じられていた。実際ナッシュにその手の経験もあった

入院後、自身を拘束されてる政治犯と思い、異常を隠す。医師は疑いつつ退院を許可。プリンストン大学で数学者に囲まれた生活を再開するが、ヒゲと髪を伸ばし奇妙な行動を繰り返し、また入院

当時はインシュリン昏睡療法というものがあった。インシュリンを注射し、低血糖からの昏睡状態に。それを毎日行うという気の狂った手法
脳の栄養である糖を排除すれば余計な働きをする脳細胞は死滅するだろう、という発想らしい
だがナッシュはそれでなんかよくなった。流体の研究を再開したりゲーム理論の集会に出席したり(だが発言はせず)

統合失調症の自殺率は重度の鬱に匹敵する。自殺衝動は、治った、と告げられた直後が多い

ナッシュは創世記のエサウヤコブの話を自分に重ね合わせていた。というか同一視していた
統合失調症陰性症状(健康なときにあったものが失われること)は、妄想や幻覚(これは陽性症状、つまり健康な時はなかったものが現れる)よりも人を台無しにしてしまう
感情の鈍化、意欲低下、失論理などが陰性症状
田舎町で家族と過ごし、母が亡くなったあと、妹はたまりかねてナッシュをまた精神病院に入れ、退院後にナッシュはプリンストン大学へ戻る
大学内でうろつき黒板に訳のわからないものを書き続ける。大学生の間には噂が飛び交う。かつて数学の天才だったが「あちらの世界」に行ってしまった幽霊だ、と

ヒロナカヘイスケがフィールズ賞を(日本人で二人目に)受賞
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E4%B8%AD%E5%B9%B3%E7%A5%90
すると、ナッシュは黒板にそれにまつわるメッセージを書いた。内容は数学的に高度なもの
ナッシュなりのルールで読み取ったメッセージ(と思い込んだもの)を分析して計算して色々な意味付けをした。現実世界で意味を持つ内容ではなかったが、知的衰退からナッシュを守ってくれたものと思われる

離れて暮らしていた妻のアリシアがナッシュの孤独な状況をかわいそうに思い一緒に暮らすようになる。統合失調症に(いまでは)必要とされている、圧力をかけず優しく扱ったのが後の回復につながったのではと
アリシアとナッシュの息子、ジョン・チャールズ(愛称ジョニー)。ファーストネーム父と同じだし名付け文化謎
息子のジョン・チャールズも、父と同じく妄想に取り憑かれてしまった。統合失調症
兄ジョン・デイビッド
弟ジョン・チャールズ
弟のジョン・チャールズの方は統合失調症に悩まされながらも比較的安定しており、大学に入り数学の才能を発揮した
1990年頃、ナッシュの症状は寛解にむかっていた
コンピュータの使い方を学び、プログラムも書いた
統合失調症は治らないとされていて、ナッシュは稀な回復例
昔は例の馬鹿げたフロイト主義で説明されてたが、いま統合失調症は遺伝性と考えられている。実際にナッシュの次男が発症。

ナッシュ当人は1996年に「わたしは非理性的な思考の世界から、薬も何も使わず、時が経つにつれてごく自然に脱出した」と語っている
妄想に縛られた思考を自分自身で理性的に拒否するようになった。それはそれまでも自分の中で回してきた基準。無為でしかなかった政治的思想を退けて、解放が始まった

1994年、ナッシュがノーベル経済学賞を受賞
ノーベル賞の推薦・調査・通知などなどは秘密に守られている。委員会メンバーが過去の記録を参照できるのですら50年後
ノーベル経済学賞は、ノーベル賞設立から70年後に追加された。厳密にはノーベル賞ではなくスイスの銀行が出すものだが世間的には差はない
ノーベル経済学賞を与えるかどうかで議論。ノーベル賞は情報流出を防ぐために発表の直前に投票する
そもそもノーベル賞は本来経済学賞なんてものはなかった、追加したのは失敗だ、みたいなそもそも論議論も掘り返され紛糾

70歳になったナッシュは、40年に及ぶ狂気の世界から脱出して、再び研究に取り組む。
(本書出版時点ではまだ存命だったが)2015年に86歳で他界。