『意志と表象としての世界(2)』ショーペンハウアー
20150207開始, 20150208読了
第三巻 表象としての世界の第二考察
これまでのあらすじ: 第一巻では世界を「主観に対する客観」,単なる表象として述べた 第二巻ではそれが「意志」であるとわかった. つまりこの世界は表象であり,意志でもある.意志が客観・表象となったことに他ならない.
主観が個体として認識するものであるかぎり,主観の認識のすべての上位に立つ形式 = 根拠の原理,なので イデアは主観そのものの認識領域の外側にある.
カントの導入した"物自体" = Ding an sich
『純粋理性批判』の中で、経験そのものを吟味した際、経験の背後にあり、経験を成立させるために必要な条件として要請したものが、物自体
(中略)
この「物自体」という発想・概念は、古代ギリシャのエレア派・プラトン・アリストテレス等によって紡がれてきた「イデア・形相」ないしは「ウーシア」(本質存在)概念、また、それを継承した中世のキリスト教神学(スコラ学)における「神」概念の類、すなわち、「理性・論理でのみ接近・接触し得る実体・本質」という西洋思想史特有の伝統的発想・概念の延長線上にある
(中略)
カント以後のドイツ哲学者では、ヘーゲルやフィヒテにみられるように、「物自体」という概念を斥け自我や主観のみが実在するという独我論に近い立場をとる。ただ、ショーペンハウアーは「物自体」を「意志」と同一視し、その道徳観の基礎としている。
カントとプラトンは言葉は違えど両者とも「目に見える世界は現象である」と説明している. 本書の立場から言えばイデア != 物自体である.意志は物自体であり,イデアとは一定の段階におけるこの意志の直接の客体性にあたる.
あらゆる相対関係の外に独立して存在しているイデア.これを一体どのように考察するのか. => それは"芸術",すなわち天才の業である.芸術のただひとつの目的はイデアの認識を伝達することである.
平均以上に知性が高まることはすべて一種の異常であって,それだけでもすでに狂気にかかりやすくなっているようにみえるかもしれない (p.54)
ある対象を「美しい」という時以下のことが起こっている.
- 対象を眺めていると我々が客観的になってゆく.自分を個体ではなく意志を離れた純粋な認識主観として意識する.
- 対象のうちに個物を認識することなく,イデアを認識する.
[復習] 物質そのものはどこまでも因果性であり,イデアを示すものではありえない.
この後芸術・音楽が「喜びそのもの」etcを表現しているという話に続く.
第四巻 意志としての世界の第二考察
自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならびに否定
第四巻であつかうのが「実践哲学」,三巻までの「理論哲学」と対照をなすもの.だがショーペンハウアーに言わせれば哲学はすべて理論的.
哲学は存在するものを解釈し説明すること以上にはなにもなし得ない.(p.238)
いままでの三巻を復習して以下のようにまとめている
表象としての世界においては意志の前に,意志を映す鏡(意思の反映である現象界のこと)が立ち現れ,この鏡にてらして意志はおのれ自身を認識するのだということ,そして認識はいろいろな段階をへて漸次明瞭さと完全さとの度合を高めていくことになるであろうが,その最高段階が人間にあたるのだということである.(p.247)
人間はもともと自然それ自身,それも最高の自己意識の段階における自然それ自身. しかもその自然がまた生きんとする意志の客観化された姿. 自然の不死の生命が人間自身の本質でもある.