『日本国家の神髄 - 禁書「国体の本義」を読み解く』佐藤優

日本国家の神髄 (扶桑社新書)

日本国家の神髄 (扶桑社新書)

20150413開始,20150423読了

雑感

元は2009年,それが2015年に新書化

文部省編『国体の本義』(1937年) ... GHQにより禁書に指定されたことによる印象論だけがひとり歩きしているが,実際は明治以降に流入する西洋の思想をいかに消化・土着化させるかというテーマを真剣に掘り下げている本.

ほんとに「読み解き」で,『国体の本義』の全文を掲載しつつ解説を加える形.いままで佐藤氏の著作から感じていた「異様な滅私奉公」感の根っこにある考えを見た気分.

僕個人がどちらかというと西欧世界の視点を重視し学んできたので,カウンターとして興味深い内容.

メモ


南北朝の動乱において,南朝の忠臣北畠親房卿が『神皇正統記』を著し,「大日本者神国也(おおやまとはかみのくになり)」というわが国体を,復古の精神によって再発見した作業を私なりの言葉で反復しているのである.(p.3)

日本における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。 ref: 南北朝時代 (日本) - Wikipedia

外交官や軍人が国のために命を投げ出す覚悟があるというのは国際基準でもあたりまえのことだが,日本ではこの当たり前が通じない.

『国体の本義』とは

天皇機関説問題が起きて,国家のあらゆる営為はそれを通じて国体を明らかにするという明確な方向づけをもってなされねばならないとする「国体明徴(こくたいめいちょう)運動」の広がりの中で,文部省自らが国体とはそもそも何なのかを明らかにするために出したパンフレット

とのこと.右翼系国粋主義学者の共著.

国体とは国家を成り立たせる根本原理であり,目に見える成文憲法とは独立して存在しうる.イギリスはピューリタン革命,名誉革命を経て近代国家として成立した国だが,慣習法の伝統が定着しており成文憲法を必要としない.もうひとつイスラエル成文憲法がない.

決して負け戦をしてはならないというのが,あの戦争からわれわれが学んだ教訓なのだ.(p.16)

『国体の本義』は,西欧(米国・ソ連も含む)の限界はアトム的人間観にあると喝破.個体がすべてであるとなればエゴイズムが是認され,競争原理も是認される.

2008年のリーマン・ショック以降自由主義(これもアトム的人間観に基づく)の限界も見えてきた.

;; わりとなんとかなってるけどな

国体は発見するものであり,構築することは出来ない.

真理は一つ,理性的に考えれば人間は同じ結論に達するハズという見方は,フランス革命(1789)で議長から見て左側に座っていた人々,すなわち左翼の理想.

理性には限界があり,理性の限界の外においてこそ人間の真価があるとするのが右翼.著者は右翼側.

「右翼というと街宣車乗ってる人と一緒にされそう」という理由で「オレは保守だが右翼じゃない」みたいに拒否反応を示す人が多いが,問題は誰がどんな行動をしたか,である.

「皇統」と言うべきで,「天皇制」という言葉はコミンテルン(共産主義インターナショナル=国際共産党)が作成した言葉なのでなるべく用いない.制度っぽく見えるので.

保守とは自国の伝統を踏まえて成立する概念

共産主義の脅威はもうないので親米保守から新日保守に戻るべきだが,脱却できてない.

外国のドクトリンが日本と異なるとしても,それが国体に害を与えないなら何も言わない. ;; 国体に害を与える,とはどういうことになるのか.疑問アタマに置いて読み進める

著者の作業仮説: 『国体の本義』は国体明徴運動の結果生まれかねない非合理・神がかり的な観念論を阻止して,欧米思想・科学技術の成果を日本が取り入れることを大前提に,現代国際社会で日本国家と日本人がどう生き残るかを考えた当時の叡智の結集である.

実際問題として科学技術を取り入れたからこそ戦艦大和ゼロ戦,隼などが作れたわけだし.

日本の政治エリートが『国体の本義』の立場にきちんととどまっていれば,少なくとも負け戦に突入するようなことはなかったと私は思っている.(p.38)

とはいえ1930年代後半の日本思想には確かに「極端な日本主義」という危機が存在した.日本式便器は踏ん張るから強い,アメリカは軟弱みたいなpgr思想も確かにあったが,少なくとも『国体の本義』には他国家・他民族への蔑視・偏見は含まれていない.

;; このへんから『国体の本義』本文が始まり,読み解きの開始

古来からインド・中国の文明を受け入れてきたが,日本独自の新道原理によってこれらの文明を土着化してきた.それをまず評価.

で,欧米文明.欧米文明の背景にはそれを支える思想があり,日本人はその思想にあまりに無自覚であるため混乱が生じている.

端的に言うならば,近代化を可能にした欧米の思想は,個体がすべてであるアトム(原子)的世界観を基本としているのである.ニュートン力学を基本とする物理学のモデルと,個体の経済活動を基本とする資本主義の論理は,アトム的世界観という共通の価値観によって支えられているのである.(p.47)

個体がすべてであるという世界観をとると日本の国体が内側から崩れるが,近代科学の成果を否定することはできないし資本主義の論理を忌避することもできない.なので,欧米近代文明を土着化していこう,それが現下日本が抱える最重要課題である,と.

世界史は視点の数だけ存在する.国の間で共通の歴史を作ろうという動きは,世界史の本質をわかっていない.

『国体の本義』は,近代欧米思想の起源を15世紀のルネサンスや16世紀の宗教改革ではなく,18世紀の啓蒙主義にもとめている.理性(ratio)によおって真理を判定するという考え.哲学史でも理性を使って真理を判定しようとなったのはカント以降だが,カントは理性の限界を認めている.しかし啓蒙主義は理性は無敵と仮定.

時間の観念を転換する必要がある.時間は過去から未来に流れているのではない.過去から未来に向かう時間,すなわち過去のしがらみと,未来から過去に向かう時間,すなわちわれわれの将来の理想から向かってくる時間が,現在でぶつかりあい,火花を散らすのである.「永遠の今」において,過去と未来は統一されているのだ.ここから,出来事をつなぎあわせ,意味を付与した歴史(Geschichte) が生まれる.(p.80)

歴史は一つではない.過去の無数にある歴史的事実のどれを取り上げ,どのように結びつけるかによって作られる歴史は違ってくる.

  • 社会なくして国家は考えられない.社会を強くすれば国家も強くなる.個(アトム)を強くしても社会は強くならない.
  • そのためには,自分のためだけでなく社会のために能力を用いるという気構えを持った個人を強化するべき.社会的意識から出発.
  • そのためには,われわれを結びつける共通の神話が必要となる.どの民族も伝統を突き詰めると神話に行き着く.

『国体の本義』は1930年代に『古事記』『日本書紀』の日本神話を再確認しようとした試み.

神話を回復すれば,われわれは死を克服することが出来る.(p.83)

天皇高天原の神々と直結しているという信頼において君民共治という日本独自の国家体制を生み出している.重要なのは知恵・力・徳といった世俗的基準で皇統を評価しないこと.

日本の国体の特徴は権威と権力が分離されているところにある.

日本が外国からどう見られているかは日本にいるとわからない.リーマン・ショック金融危機で日本の立場は相対的に強化されたが,そのことに日本人自身は気づいていない.数学は矛盾を含む世界,それにだまされない日本人の思想が重要 ... by 著者の友人のイスラエル

日本人の「ぼんやり」が金融危機で日本国家が奈落の底に落ちることを救った.不動産バブルのときにあれほど踊った日本人がなぜ.

日本の土地は,天照大神の御加護を受けた神州だ.それは,高天原と対応している.これに対して金融派生商品は,実体的な根拠がない.(p.105)

;; いやいや...

『国体の本義』は祭祀(さいし)の重要性を強調.降臨の際に高天原の斎庭の稲穂を授けたという形で,この世界と高天原は対応付けられている.我が国の思想は農本主義が根っこにある.

霊を慰めるという発想自体が宗教なので,英霊靖国神社で祀るという文化があるならその枠組の中で追悼を行えばいいだけ

天皇に対する忠は,契約に基づくものではない.われわれ日本人が日本人であるが故に生じる必然的道である. (p.124)

西洋の封建制は主従の契約関係が基礎にあるが,日本の国体の特色は,神話によって担保され天地開闢の神々と皇統がつながっているという信仰にある.

ユダヤ教の聖書(キリスト教で言う旧約聖書)の「創世記」にある天地創造の記述は,『古事記天地開闢の記述と同じ性格を持つ.

国民生活の基本単位は「家」という共同体で,ここで親から歴史を継承する.

『国体の本義』1章4節「和と『まこと』」.和は,聖徳太子も和をもって尊しとなすと言ったように,国体の基礎にある.

<単なる機械的・同質的なものの妥協・調和ではなく,各々その特性をもち,互に相違しながら,而もその特性即ち分を通じてよく本質を現じ,以て一如の世界に和する> というのは,ライプニッツの唱えたモナド(単子)と同じ構成をしている.(p.147)

『国体の本義』の国家観とモナドロジーは親和的である.

これまで米国で支配的であった新自由主義は,アトム(原子)的な個体を基礎単位とする思想だ.個体(個人,企業)が市場で競争して得られた結果が,社会にとってもっとも好ましいという発想だ.しかし,そのような発想は,まやかしである.市場に,すべての者が対等の立場で参入することができるというのは幻想だ.圧倒的な資金力,あるいは政治権力(資本主義社会において貨幣と権力は,かなりの程度交換可能である)をもった者は,一般の市民とは異なる情報を持っている.この情報が市場においては,価値を持ち,貨幣に転換されることになる.市場は自立したシステムではない.共同体と共同体の間,もしくは共同体内部の好感がなければ市場は成立しない.交換の前提に情報がある.情報の不均衡を前提として,市場は成立するのだ.(p.156)

2008年リーマン・ショック以降,米国は新自由主義から脱却しようとしている.オバマは個人のタテマエを保持しつつ,米国を米国としてまとめようとする.この傾向は1920年代にイタリア,ムッソリーニが展開したファシズム(fascismo)と親和的.イタリアのために行動するものがイタリア人である,とするもの.ちなみにファシズムナチズムとは別物,どころか異質な思想なので注意.

『国体の本義』は共産主義自由主義,そしてファシズムを拒否する.ファシズムは「個人はバラバラ,それを束ねる」という順番だけど日本の「和」は個人主義という前提よりも先に来る.

印度の如きは自然に威圧せられてをり,西洋に於ては人が自然を征服してゐる観があつて,我が国の如き人と自然との深い和は見られない. (『国体の本義』p.54-55)

「和」による人間と自然の調和は,ある程度まで自然を改編することを否定しない.つまり欧米の科学技術の成果を包み込むことが出来る.自然に服従する,極端なエコロジー思想とは異なるもの.

;; そうするとどこで線引きするか,という別の問題が立ち上がってくるけど疑問は置いて読み進めよう

和は日本人の社会倫理の規範である.この和を担保するのが,日本人がもつ重要な価値観である「まこと」だ.(p.166)

『国体の本義』はこれを「人の精神の最も純粋なもの」と言う.真言すなわち真事.言はれたことは必ず実現せられねばならぬ.

まこと = 智(知識) + 仁(正義感) + 勇(勇気)

菊と刀』の中にも「まこと」についての言及あり.だが分析はけっこうむちゃくちゃ(著者談)

日本において,政権交代や政治体制の変更はあるが,国体の変更はない.いかなる状況においても国体を維持するために必要なのは『神皇正統記』で北畑が強調するような「多元性と寛容」の精神.皇統を否定する思想や運動に対しても寛容であるべき.それが現実的に国体を破壊する脅威を持たない限り.

神武天皇が大和(奈良)の橿原に都を定め,高天原の神々の精神が現実の歴史に現れるようになった出来事が皇紀のはじまり.そこを1年?0年? として現在が2675年...かな.西暦に660年足せばいい.

1192年鎌倉幕府の成立を『国体の本義』は「まことに我が国体に反する政治の変態であつた」と批判.

鎌倉幕府を打ち倒して天皇親政を回復しようとしたのが建武の新政(建武の中興).『太平記』の著者はまた別の視点から見ている ;; というか『太平記』はここを描いた話だったか.ちゃんと読もう

建武の新政によって「血筋だけでは不十分,血筋に加えて真性の三種の神器を保持していること」という天皇の条件が明確化された.

明治の復古維新はその理念において,急進的な過去への回帰.天地開闢の精神に回帰して日本国家と日本人を再生することを意図.『国体の本義』では大政奉還を決断した徳川慶喜愛国心・決断力を評価.もちろん,列強との外交上の緊張という背景も合った.

『国体の本義』は,人間は個人を中心に存在するという考えを取らない.人倫(Sittlichkeit)が存在して初めて,その関係性の中で個人が存在するとする.

人が自己を中心とする場合には,没我献身の心は失はれる.個人本位の世界に於ては,自然に我を主として他を従とし,利を先にして奉仕を後にする心が生ずる.西洋諸国の国民性・国家生活を形作る根本思想たる個人主義自由主義等と,我が国のそれとの相違は正にここに存する.我が国は肇国(ちょうこく)以来,清き明き直き心を基として発展して来たのであつて,我が国語・風俗・習慣等も,すべてここにその本源を見出すことが出来る (『国体の本義』p.96) (p.240)

われわれは関係性を重視するため,没我・無私の精神に加えて包容・同化の精神も併せ持つ.単なる自己の否定ではなく,小なる自己を否定することによって大なる自己に生きること.

没我帰一(ぼつがきいつ)...各人が自己中心型の考えを捨て,一つにまとまること.

日本の祭祀(さいし)と欧米の信仰の違いは,ヨーロッパの神々は現存する国家と直接のつながりを持たない一方,日本の神々は日本国家自体とつながっている点.超越的な神を進行するのではなく,世俗的.

欧米人の場合,超越性について体得するには,哲学や神学の訓練を経なくてはならない.これに対して,日本人の場合は,神社を訪れ,二礼二拍一礼を行えば,自ずから超越性を体得することができるという特権を持っている.(p.253)

文化がなければ国家はない.民族が同じでも文化が異なれば国家が異なり得る.日本には他文化を土着化する力がある.それが何故かを調べるのは歴史学者の仕事として,われわれはその力をありがたく受け止めよう.

外来の知に対して門戸を閉ざすという排外主義は国体に反する. ;; 鎖国文化...

日本の学問の本流には,知識のための知識を追求するというディレッタンティズムではなく,知識を国体強化のために用いるという傾向がある.国体の強化は抽象論ではなく,具体的な実践によって行われる.ここに日本版プラグマティズム(実用主義)の期限がある. (p.277)

日本の社会と国家に貢献するために学問を行う.

「自我の実現,人格の完成」という欧米の教育方針は,わが国体から見るならば,まったく不十分なのである.利己主義を行動規範とする学校秀才をいくら排出しても,日本の社会も国家も強化されない. (p.283)

日本人にとって重要な教育はわれわれの根源,すなわち神の道を探求すること.その根源を欠いた知識の詰め込みは血肉にならない.

神話が歴史に受肉することによって国史(日本史)が生まれる.ここで観念論がリアリズム(実在論)となる.突き放した歴史的事実としての「日本史」と,神話を軸に据えた「国史」の違い.

日本は祭祀共同体なのである.祭祀共同体には,同時の倫理がある.端的にいうと「まことの倫理」だ.そして,この倫理から,文化が生み出される.(p.296)

日本の成文憲法大日本帝国憲法.背後には目に見えない国体原理がある.

大日本帝国ハ万系一世ノ天皇之ヲ統治ス」という憲法第一条,ここの時点ですでに信仰の問題なので,たとえばDNA鑑定で万系一世を証明しようという試みは狭い視点と言える.

天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という文は"禁止"ではなく,肯定的に読み取るべき.

日本人の倫理観.

国民の一人ひとりが,自らの分野を持ち,そこで一生懸命に職務に精励することが,日本人の倫理だということだ.(p.313)

権力や出世を目指して競争する社会,営利追求のみを目的とする経済も否定.

個人の欲望を基礎とする経済は脆弱だ.(p.317)

「むすび」の精神.私欲より公益を重視.

『国体の本義』においては,天皇の御稜威(りょうい)に従わないものを従わせるところに軍隊の意義があるとする.その適用範囲は高天原に対応する大日本.世界制覇の野望などそもそも持っていない. ;; 島国メリット?

『国体の本義』著者は排外主義,孤立主義を批判.外来文化を摂取して生き残るべきだし,その国体に基づいた土着化こそが新文化の創造となる.

先づ努むべきは,国体の本義に基づいて諸問題の起因をなす外来文化を醇化し,新日本文化を創造するの事業である. (『国体の本義』p.143)(本文p.326)

欧米人の作り出した近代世界は部分的な世界にすぎない.

人間は社会的存在であり,個体を原子(アトム)とする世界観では"世界存在の真実を認識することができない(原文ママ)".個たる人間も言語を用いて思考し,思考の中で自問自答,すなわちもうひとりの自分を想定して対話している.歴史をつくる基体が個体であるという西欧世界の認識は錯認である.

建国神話の回復を,構築主義的な憲法改正論よりも先行させるべき.建国神話の回復はどのようになされるのだろうか? => 国体の本義 めんどいので貼っちゃうけど

かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。  併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。  今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。  世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。

グローバルな価値基準を受け入れなければならないという普遍主義の呪縛から解放され,わが国体を再発見するのだ,とのこと