『日本史リブレット 科学技術政策』鈴木淳

科学技術政策 (日本史リブレット)

科学技術政策 (日本史リブレット)

20150404開始,同日読了

明治初年に「科学」「技術」という言葉が出来てから科学技術政策が発足するまでの歴史的経緯をたどる本.表紙も手伝いめっちゃ古臭い書物かとおもいきや2010年発行....古代から日本史をテーマごとに扱う薄い本シリーズの一部.

「科学技術」という言葉が使われ始めたのは1940年頃に「全日本科学技術団体連合会」が開かれたあたり

1995年に「科学技術基本法」が制定,5年ごとに総合科学技術会議を経て「科学技術基本計画」が決まる.条文含めて内閣府のwebで見れる

科学技術基本法の目的

我が国における科学技術の水準の向上を図り,もって我が国の経済社会の発展と国民の福祉の向上に寄与するとともに世界の科学技術の進歩と人類社会の持続的な発展に貢献すること (科学技術基本法第一条)

資源が乏しく,一方で生活水準や労賃の高い日本がさらに発展,あるいは現在の水準を維持するためにも科学技術水準を維持・活用することが必要

科学(science), 技術(technology)

西周(にしあまね)が明治初期に『エンサイクロペディア』を紹介した『百学連環』の中で初めて使われる.以下のように訳した.

  • Science => 学術
  • Liberal Arts => 芸術
  • Mechanical Arts => 技術

技術という言葉は国内に定着した早い時期から,近代文明の成果を移植する現場で必要な職務を示す言葉として用いられてきた (p.7)

幕末,とくにペリー来航からの10年間ほどで新技術がぞくぞく.海湾に備える砲台やら洋式帆船.

1862年,オランダにはじめての本格的な留学生を送る.西周,伊藤方成ら.技術面では軍事中心だったが人文・医学も含め幅広く吸収しようと.

1870(明治3)年に工部省(こうぶしょう)がおかれる.外国人らの指導のもの進められていた官営事業を管轄しつつ,工業全般の奨励も.翌年「工部大学校」設立.

1797年の昌平坂学問所が開成学校,医学校などと一緒に1869年「大学校」となり, 紆余曲折あって1877年に「東京大学」となる.帝国大学東京帝国大学などを遷移して1947年再び「東京大学」に

第一次世界大戦では毒ガスや航空機といった科学技術が戦況を左右し,科学者の戦争などといわれる.

大戦前年の1913年にアメリカから帰国した高峰譲吉の発案により,1916年に国営研究所として「理化学研究所」が設立.寄付金は予定の半分程度しか集まらなかったが,皇室下賜金や政府補助金なども投入.ただし当時は工業界への寄与は工業試験場には及ばず.

陸軍1919年「陸軍技術本部」「陸軍科学研究所」.兵器・兵器材料に関する科学研究.

海軍1923年「海軍艦型計画書」「航空機実験所」などを統合し「海軍技術研究所」発足. のちに海軍依託学生の採用範囲を,帝国大学から東京・大阪高等工業学校(のちの東工大・大阪工業大)や早稲田などにも拡張.

1879年,先進諸国のアカデミーを模して「東京学士会院」を設立.明治末年には賞金・研究費の交付による研究奨励を開始.1910年に皇室より賞典資が下賜されることになり,恩賜賞開始.また三井と三菱,住友と古河からも寄付が.

南洋技術,太陽観測,火山・温泉地下熱,科学博物館の設立などなどぱらぱら出始めてきたので1921年に「研究の連絡統一に関する建議」として,政府があらたに科学研究所などを設置する際はあらかじめ学術研究会議に諮詢(しじゅん)するよう求める.

1933年,日本学術振興会.学士院長,東京帝国大学総長,日本工学会会長の呼びかけで.貴族院衆議院での満場一致,下賜金をへて設立.設立当初から最大の研究奨励機関となった規模.

1940年「科学技術新体制確立要綱」."日本的性格を持つ技術・自給資源による国防産業の積極的振興策" を確立すると

当時技術者不足にもかかわらず官立高等学校の理系志望者が減少しており,

高度国防国家建設のための科学技術振興の必要性と若者の理系離れを前提に,科学技術政策は発足したのである.(p.73)

1942年「技術院」の開庁.工業研究,試作奨励.地質調査とか技術者育成にも力をいれたかったが,陸軍を中心に航空技術を重視する主張が強く果たせず.

技術院は同年「科学技術審議会設置要綱」を作成.統合しようとしたが

科学技術審議会は「科学技術最高国策に関する重要事項を調査審議する」という本来の目的は達成できず,担当各省ごとの審議会をつくったようなものであった (p.81)

こうしてバラバラに作ったがゆえに敗戦の混乱を超えて遺産を残せた,とも考えられるので皮肉なもの.

陸海軍の研究機関は戦時下に急速に拡大・改編.技術系軍人たちも急速に増員.明治以来海軍と大学の関係は深い.陸軍も徐々に.

結局のところ,科学技術研究を統制し,その発展を推進する強力な機関は生み出されなかった.しかし以上のような軍の技術部門のあり方,文部省と関係団体の協力姿勢,また産業技術振興への商工省はじめ各省の積極姿勢,そして戦時下の限られた時間と当時の技術水準を考えると,はたしてそのようなものは必要だったのかという疑問が湧いてくる.技術院に結実する「科学技術新体制」の運動は,在来の官庁を刺激し,科学技術への取り組みを積極的にさせた効果はあった.そのような触媒的役割を果たしたのがこの時期の科学技術政策であったといえよう.(p.96)

戦後,科学は希望の言葉となる.早くも終戦の4日後には朝日新聞は「一路科学の勃興へ」と見出しを.

精神主義原子爆弾をはじめ科学の力にわかりやすく敗北した経験をして「我々の日常生活万端の現象をすべて科学的に切替へる」と言わしめる.

科学的と思われた社会主義への憧憬にもつながったり.

「欧米追従主義」の日本の科学者・技術者への批判

解決の難しい題目と取組むことを極力避け,なるべく容易に結論の見出せさうな題目のみを取上げんとする科学者精神とはおよそ逆の安易な功利主義的弊風を将来した.従って学者の食ひつく戦時研究の題目が軍事上の要請からいへば大部分粕ばかりであったこともまたとうぜんであった.(p.98)

子爵 河瀬真の貴族院での演説

科学技術なる用語は大東亜戦争中戦力増大のための所産でありまするが,此の言葉の持つ意義こそは国を救ひ,国を興し,国を富ましむるの方途を現すものでございまして,時の平戦に依りその重要さに何等径庭はないのでございます.否,今日のごとき国歩艱難なる時期におきましては,科学技術の振興昴揚程大切なことはないと存ずる次第であります. (p.99)

1945年技術院廃止.「科学の振興等」は文部省の科学局を改組した科学教育局が引き継ぐが,これもすぐ廃止.

占領下では軍事研究亜はもとより原子力・航空・レーダーの研究も禁じられる.しかし連合国軍最高司令部の科学技術課により「生活の向上や産業の発展を目的とした」科学技術という枠組みで行政は継承される.

同じく科学者組織の再編もGHQ科学技術課の支援・諒解(りょうかい)のもと進められる.

1949年には湯川秀樹ノーベル賞受賞が決まり日本の科学者の威信が高まる.

1956年「科学技術庁」設立.1952年の講和により航空機研究が解禁,他にも原子力・宇宙開発という大規模技術開発の道が開けたこともあり

2001年「文部科学省」設立,科学技術庁は廃止.科学技術庁の基本計画は内閣府の方に引き継がれた.