『山ん中の獅見朋成雄』舞城王太郎

山ん中の獅見朋成雄 (講談社文庫)

山ん中の獅見朋成雄 (講談社文庫)

;; 20150703開始,同日読了

それから夜が本格的にやってきて,あっという間に自分の手足が見えなくなる.僕は時々気まぐれに森の中を覗きこむ月の明かりと暗闇の中にグラデーションを作る木の幹のシルエットを頼りに上へ上へととりあえず進んでいく.(p.88)

僕はもう変わってしまったのだ.あのトンネルをくぐる前の僕にはもうなれないし,あの頃の僕ももう戻ってこないんだ.僕は諦めなくてはならない.目の前にある僕でなんとかしなければいけない.新しい僕のままで何とかやっていかなくてはならない.そんなこと知っていたし,そうするつもりだったし,新しい僕を受け入れてたつもりだったし,前の僕なんてどうでもよいつもりだったのに,墨を握った瞬間,僕はあっという間に昔の僕を取り戻そうとしていた.昔の僕になろうとしていた.昔の僕に返ったつもりになっていた. 僕は僕自身を騙そうとしていたのだ.そして僕は,無意識のままでそれができるのだ.(p.193)

僕は僕の知らないうちに僕を騙せる. だとしたらたった今の僕だって,無意識の内に僕自身に騙されているのかも知れないじゃないか. (p.194)

僕は歯を食いしばる.畳の上に置いた硯の上に墨を突き,正座で上体を屈ませたまま,僕は奥歯に力を込めて,あやふやな僕自身というものに耐える.よりどころのない僕が僕の頭の上にのしかかり,僕の脳を食べてしまうぞと僕を脅すのを,悲鳴をあげずに僕はこらえる.(p.195)

僕が僕自身に対する僕自身の無意識の裏切りをいくら疑ったところで答えは出ない.そんなのいくら考えても無駄だ.僕は今の僕を断続的に作りながら上手くやっていくしかない.これが今の新しい僕なのだ. (p.197)

僕はなかなか女の子に受けがいい.これは僕が風呂番の中で一番いい仕事をするからではなくて,飛び抜けて若いからでもなくて,どうやら僕が人を殺したかららしい.(p.208)

今はそもそも考えるべきときじゃないのだ.僕は考えず,手を動かさなくてはならない.(p.219)

生活する場所なんて,どこでもいいんだよ.問題は誰と生きるかってこと(p.257)